東京地方裁判所 平成4年(人)6号 判決 1993年1月13日
請求者
安倍治夫
請求者
甲野花子
右両名代理人弁護士
近藤勝
同
湊谷秀光
同
村田英幸
拘束者
東京拘置所長
中間敬夫
右指定代理人
開山憲一
外三名
被拘束者
甲野一郎
主文
一 本件主位的請求及び予備的請求をいずれも棄却する。
二 手続費用は請求者らの負担とする。
理由
第一当事者の求めた裁判
一請求の趣旨
(主位的請求)
被拘束者を、治療のため、東京拘置所から東京都世田谷区<番地略>所在の東京都立松沢病院(以下「松沢病院」という。)に移送する。
(予備的請求)
拘束者は、被拘束者を、松沢病院の医師に診察させよ。
二拘束者の答弁
(本案前の答弁)
本件請求を却下する。
(本案の答弁)
主文と同旨
第二事案の概要
本件は、死刑判決確定者として東京拘置所に拘置されている被拘束者について、その再審請求弁護人及び被拘束者の実姉が、現在被拘束者の精神状態は異常であるから、治療の必要があるとして、人身保護法(以下「法」という。)に基づき、主位的に、松沢病院への移送を求め、また、予備的に、同病院の医師による診察を受けさせることを求めた事案である。
一争いのない事実
被拘束者は、昭和五五年一二月、強盗殺人等の罪により死刑の判決が確定し、その後現在まで東京拘置所に拘置されている死刑判決確定者である。被拘束者は、昭和五六年四月二〇日、静岡地方裁判所に刑事再審を請求し、右再審請求事件については現在審理中である。
拘束者は、被拘束者が拘置されている東京拘置所の管理者である(以下、東京拘置所における被拘束者の拘置の状態を「本件拘束」という)。
請求者安倍治夫は、昭和五六年四月二二日、被拘束者から再審請求弁護人に選任され、引き続いてその地位にある者であり、請求者甲野花子は、被拘束者の実姉である。
被拘束者は、昭和六〇年ころから、面会者に対して、「電波攻撃で脳を照射されている。」、「電波にやられて、足がかゆい。」などの苦情を訴えたことに始まり、「大天狗の許可で、出獄できる。」などの妄想を抱くなど、特異な言動を示すようになった。
二争点
本件の争点は、本件各請求が人身保護法に基づく請求として適法か否か、また、本件拘束が被拘束者の精神状態を悪化させ、かつ、これについて十分かつ有効な医療措置を施せないという点で、著しく違法であることが顕著であるか否か、にある。
1 本件各請求の人身保護法に基づく請求としての適法性に関する主張
(一) 拘束者
本件各請求は、被拘束者の身柄を松沢病院へ移動して緊急な医療措置を受けさせること、又は同病院の医師による診察を受けさせることを求めるものにすぎず、身体の自由の拘束から被拘束者を解放することを求めるものではないから、法に基づく請求としては不適法である。
また、本件各請求のように、適法な手続によって拘束を受けている被拘束者の医療内容の当否を問題とする移送等の請求は、行政事件訴訟法に基づく義務付け訴訟の対象となると考え得る余地があるかどうかはともかく、そもそも人身保護法が予定している救済の対象ではない。ましてや、右のような被拘束者に対する診療や外部病院への移送は、監獄法四〇条、四三条一項によって監獄の長である拘束者の裁量にゆだねられている事項であるから、被拘束者は法二条にいう「法律上正当な手続によらないで、身体の自由を拘束されている者」に該当せず、本件が人身保護規則(以下「規則」という。)四条にいう「拘束又は拘束に関する裁判若しくは手続に著しく違反していることが顕著である場合」に当たらないことは明らかである。したがって、本件各請求は、これらの点からも、法に基づく請求としては不適法である。
(二) 請求者ら
たとえ適法な拘禁であっても、被拘束者が十分な治療を受けられず、その精神的・肉体的健康を著しく損なうおそれのあるような場合、その拘禁は態様において違法であり、人身保護法に基づく請求の対象となる違法な拘束に当たる。このことは、市民的及び政治的権利に関する国際規約一〇条一項及びこれを受けた国連決議等で、受刑者の治療を受ける権利が認められていることからも明らかである。
そして、被拘束者について、十分かつ有効な治療を施されない違法な拘禁から、十分かつ有効な治療を施される適法な拘禁に移すことも、身体の自由の回復に当たるといえる。法も、一〇条一項などによって、本件のような請求が許されることを規定している。また、被拘束者が十分な治療を受けられない場合、他に適切な救済手段がないことも明白である。
したがって、本件各請求は法に基づく請求として適法である。
2 本件拘束の著しく、かつ、顕著な違法性の有無に関する主張
(一) 請求者ら
被拘束者は、昭和六〇年ころから、精神状態に変調ないし異常を来し、現在、精神分裂病ないしこれに類似した被害妄想や誇大妄想、赦免妄想の状態が顕著にみられ、人格的な水準低下及び感情鈍麻が認められる。仮に被拘束者の精神状態が拘禁反応であるとしても、情意面での後遺症を残すことも考えられるので、緊急の治療が必要である。
被拘束者のこのような状態は、監獄の長として被収容者の健康を保持する義務を負つ拘束者が、被拘束者に異常が認められた当初において、直ちに精神医療の専門家に被拘束者の診察・治療をさせるべきであったにもかかわらず、漫然とこれを怠ったことによるものである。拘束者は、現在においても、被拘束者に対して十分かつ有効な治療・看護を施さず、何らの治療計画もなしに被拘束者を放置している。本件拘束が行われている東京拘置所においては、十分な医療体制が整っておらず、精神に異常を来している被拘束者は十分な治療を受けることはできない。
本件拘束は、被拘束者の精神状態を異常にさせ、悪化させているものであって、その態様において著しい違法性が顕著である。仮に、拘束者が被拘束者を病院に移送することについて裁量権を有するとしても、本件においては、拘束者が、被拘束者の健康を保持する義務を負うにもかかわらず、右裁量権の行使を違法に怠り、被拘束者の精神異常を悪化させているのであるから、裁量権の逸脱・濫用として、本件拘束の違法性は著しく、かつ、顕著である。
これに対して、松沢病院は、権威ある公立の精神病院であって、人的・物的に万全の治療体制を有する。また、被拘束者の監護・警備体制という面からも、十分な施設を有している。
したがって、被拘束者については、著しく、かつ、顕著な違法性を有する本件拘束から、精神疾患の診断・治療のために、松沢病院に移すか、少なくとも同病院の医師による診療を受けさせる緊急の必要性があるというべきである。
(二) 拘束者
東京拘置所は、医務部長以下一一名の医師が配置され、病棟も有している。一般的な医療体制としては、被収容者の出願を受けて拘置所又は外部の専門医が拘置所内の診療所で施行するいわゆる外来診療、緊急の場合の診療、病状に応じて拘置所内の病棟に収容して行う診療、集中治療室(ICU)における集中医療等を行っている。加えて、拘置所内で十分な診療を行えない場合には、外部の病院に移送してしかるべき診療を行うこともあるが、東京拘置所は小規模ながらいわゆる総合病院としての医療体制を整えているため、特に拘置所に専門医を配置していない診療科で受診する必要があるとか拘置所に設置していない特殊な医療機械等を使用する必要があるといった例外的な場合を除いては、被収容者を外部の病院に移送して診療を行うことはない。東京拘置所における精神科の診療については、精神科医が二名、脳外科医が二名配置されており、精神病棟も有し、相当の医療設備も備わっていることから、患者である被収容者を外部の病院に移送する例はほとんどない。
被拘束者は、刑法一一条二項によって死刑執行の前置手続として拘置されている。死刑判決確定者は、人間の本能としての生への要求が阻止されていることから、常に生と死の間で葛藤しているものと考えられ、拘禁施設における管理の必要上、その精神状態の安定について格段の配慮を払う必要がある。東京拘置所においては、死刑判決確定者に対しては、処遇担当職員が少なくとも一〇分に一回視察をし、精神状態を把握すべく努めており、特異な動静を認めた場合には幹部職員に報告し、処遇担当職員による声かけ、事情聴取、指導や幹部職員によるカウンセリング等によって不安原因の発見や精神状態の安定を図っている。そして、必要があれば、医務部において精神科医による診察、しかるべきカウンセリング、投薬等の治療措置を行うことも可能な体制を整えている。右診療を行うに当たっては、できる限り当人の任意により実施する扱いとしているが、そのまま放置すれば被収容者の生命等に回復しがたい事態に至ると予想される場合には、当人の意思にかかわらず、しかるべき医療を実施する用意がある。
被拘束者においては、「電波が飛んでくる。」と述べたり、請求者甲野花子宛の手紙の内容に出獄をほのめかす内容を記載するなど特異な言動が認められるが、処遇の担当職員との日常会話においては自分自身や現実を認識していることが認められ、現実的対応が可能であり、精神分裂病と診断することはできない。被拘束者は、現在拘禁反応を呈しているものと考えられるが、現段階においては性急に強制医療を導入すべきではない。東京拘置所においては、このような考えの下に、被拘束者に対して、医師や処遇担当職員による非干渉的な接触の試みを行い、被拘束者の同意のうえで診療できるようにその機会をうかがいながら経過観察をしてきた。特に、平成四年八月以降は、治療関係(信頼関係)の維持に配慮しながら、処遇担当者等によって従来よりも積極的な働きかけを行っており、その結果、被拘束者は、消極的ながらも精神科医の診察(カウンセリング)を受けるようになった。被拘束者は、診察の回数を重ねるごとに次第に多くを語るようになった。診察における被拘束者の言動においては、「電波」や「霊」に関する会話が多くみられるが、従前にみられた反抗的、攻撃的な言動が少なくなり、軟化が認められるようになった。現在、東京拘置所の医師と被拘束者との間に投薬が可能な治療関係はまだ確保できていないが、神経学的検査及び頭部CT検査を施行した際には被拘束者は極めて協力的であり、一定の信頼関係は形成されている。東京拘置所の医師は、これまでの診察の状況から、被拘束者は必ずしも自閉的、拒絶的ではなく、一定時間の面接が可能であり、自分自身を客観的に述べることができ、妄想的発言をしつつも、それを留保し、現実を認識できることなど、健全な自我機能が認められることから、治療関係の改善が期待できる現段階において、被拘束者の意思に反して投薬等の治療を行うことは適当でないと判断している。このように、東京拘置所における被拘束者に対する医療対応には十分な合理性がある。現状より被拘束者の精神状態が悪化し、具体的医療行為を実施しなければ回復しがたい事態になると思われる場合には、必要に応じて強制的な医療を実施する用意があり、その医療的対応は外部の病院と同様の措置を講ずることが可能であり、仮に被拘束者が精神分裂病に罹患しているとしても、東京拘置所において十分に加療することが可能である。
これに対して、松沢病院等の外部の病院においては、直接被拘束者と日常的な接触が要請される看護婦又は看護士が死刑判決確定者という特殊な法的身分にある者を処遇する技術を備えているとは考えられない。また、仮に松沢病院に被拘束者を移送した場合、東京拘置所が被拘束者の拘禁を行うことになる(監獄法四三条二項)が、松沢病院には拘置所と同程度の物的戒護設備は到底望めず、人的戒護においても多大な支障を生ずる。さらに、被拘束者をいったん外部の病院に移送すると、東京拘置所の担当医師と被拘束者との間の治療関係(信頼関係)の成立が損なわれることになり、再び被拘束者が東京拘置所に戻された後の治療関係に支障を生ずることになる。
また、東京拘置所の医療体制と外部の病院のそれとを比較し、外部の病院の方が東京拘置所よりも優れているとの一事をもって、監獄の長の裁量に係る在監者の病院移送等を請求し得るものではない。
したがって、本件拘束が違法ではなく、松沢病院への移送や同病院の医師による受診が認められるべきではないことは明らかである。
第三当裁判所の判断
一争点1(本件各請求の適法性)について
法は、現に不当に奪われている人身の自由を迅速かつ容易に回復させることを目的としている(一条)。
ところが、本件各請求において、請求者らが求めているのは、被拘束者を東京拘置所から松沢病院へ移送する、又は同病院の医師に診察させる旨の裁判であり、その請求自体、移送後も引き続き東京拘置所長による拘置が行われることを予定しているから、被拘束者について身体の自由の拘束からの解放を求めるものということはできない。
しかしながら、裁判所は、人身保護請求を理由ありとするときは、判決をもって被拘束者を直ちに釈放することとされている(法一六条三項)が、法に基づく救済(法二条)として、裁判所は、被拘束者の利益のために釈放その他適当な処分をすることができ(規則二条)、被拘束者が精神病者であるとき等特別の事情があるときには、被拘束者の利益のために適当であると認める処分をすることができるとされている(規則三七条)。そして、右の適当であると認める処分は、人身保護制度の趣旨に照らし、完全な身体の自由の回復を求めるものでなくても、本件のように、拘束状態にある者が精神病者であることを前提として、この者について、現在の拘束状態からより改善された状態に置くことをも含むというべきである。そうすると、本件各請求は、法の予定する救済を求める請求であるということができる。
また、拘束者は、本件各請求が被収容者の病院への移送又は病院での診察という拘束者の裁量にゆだねられている事項に係るものであることを挙げて請求を不適法であると主張する。しかし、このような監獄の長の裁量権との関係については、拘束が著しく、かつ、顕著な違法性を有するか否かという請求の当否に関する問題として判断されるべき事項であって、拘束者の裁量権を理由として直ちに本件各請求が不適法となるということはできない。
なお、拘束者は行政事件訴訟法に基づく義務付け訴訟との関係についても言及するが、身体の自由の拘束に関しては、行政事件訴訟法に基づく抗告訴訟の方法では、相当の期間中に救済の目的を達せられないことが明白であるときは、裁判所が人身保護請求に基づいて被拘束者を救済することは許されるものということができるので、抗告訴訟の方法があることをもって直ちに人身保護請求が不適法となるものではない。
よって、本件各請求は適法というべきである。
二争点2(本件拘束の著しく、かつ、顕著な違法性の有無)について
1 本件における拘束の違法性の判断基準
人身保護請求による救済の要件について、法二条を受けた規則四条は、拘束又は拘束に関する裁判若しくは処分がその権限なしにされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著であることを要すると定めている。他方、監獄法は、在監者の治療に関し、在監者が疾病にかかったときは、医師に治療させ、必要があるときは病監に収容することとし(同法四〇条)、病院への移送については、監獄では適当な治療を施すことができないと認める場合に、情状によって仮に病院へ移送することができる(同法四三条一項)と定め、監獄の長に一定の裁量権を認めている。
このような法、規則及び監獄法の趣旨にかんがみれば、本件のように、適法に監獄に拘禁されている在監者について、精神疾患の治療に関する違法性があることを理由に、人身保護法に基づく救済として当該監獄の外部の病院に移送すること又は外部の病院で診察を受けさせることが認められるためには、在監者が治療を要する精神疾患を有し、当該在監者を当該監獄にそのまま拘禁しておいては、当該疾患に対応した効果的な治療が明らかに期待できないため、当該疾患が改善せず又は悪化するおそれが顕著であることが要件となるというべきである。右にいう監獄では効果的な治療を期待できないことが明らかな場合としては、当該監獄では、医師の配置や施設等の人的・物的な面において当該在監者の疾患に対応した治療を施せる体制になっていないときや、治療が可能な体制にはなっているものの当該在監者の疾病に対応した適切な治療を施しておらず、かつ、今後も適切な治療が期待できないことが明らかなとき等が挙げられる。このような場合には、前記のような監獄の長の病院移送等についての裁量権を考慮しても、そのまま当該監獄に当該在監者を拘禁しておくことは著しく違法であることが顕著な場合に当たると解される(なお、この場合、当該在監者の移送先として直ちに監獄ではない外部の病院を選択するのが適当であるかどうかは別途検討を要する問題であり、拘禁自体の要件が備わっているときには、有効な治療が期待できる他の監獄に移す旨の救済が適当と判断すべきこともあり得る。)。これに対して、監獄の長の病院移送等に関する右裁量権や在監者に対する拘禁、戒護その他の適切な処遇の必要性を考慮すると、在監者が治療を要する精神疾患を有する場合であっても、当該監獄において当該疾患に対応した効果的な治療が期待できないことが明らかとはいえないときは、当該拘禁の著しい違法性が顕著な場合に当たるということはできない。なお、仮に当該監獄よりも他の施設の方が、より効果的な治療を実施できる可能性があるという事情が認められても、このことから直ちに法に基づく救済の要件があるということはできない。
そこで、以上のような見地から、本件拘束について検討する。
2 被拘束者の言動等
本件記録によると、被拘束者の言動等について、次の事実が認められる。
(一) 被拘束者は、昭和四一年に逮補されて以来現在に至るまで静岡刑務所、東京拘置所等において身柄を拘束されており、昭和五五年一二月の死刑の判決確定後は継続して東京拘置所に拘置されている。
被拘束者は、昭和六〇年ころから、処遇担当職員や面会者に対して、「電波が来る。」、「食事の中に毒が入っている。」、「隣で音を立てて眠らせてくれない。」といった訴えをするようになり、請求者甲野花子あての信書にも、「害毒入り弁当を食べさせられる。」、「窓のガラス戸の音をたてて安眠妨害をする。」、「神のお告げを受けました。私達の結婚の誓いが天で結ばれました。」、「私達の入籍の労をとって下さい。」、「妻よ、今こそ積極的に自分の心に生きましょう。姉にたよりしてください。」といった記載をするようになった。特に、被拘束者は、電波に関する発言を繰り返しており、その頻度に多寡はあるものの、これが現在まで続いている。
被拘束者は、昭和六二年七月一九日ころの請求者甲野花子あての信書において、「悪魔の手先が特技として駆使するものは、自らの手の平から特異な電気を就寝中の私の足の裏から自然注入する。この行為の目的は内臓破壊にあるらしい。書き物、お祈り、就寝等の重要な時間帯に私の掌から右電気を注入して来る。この場合は記憶力の破壊を狙ったものらしい。」というような記載をし、このころから、居房内で、洗濯用ゴム手袋を頭に乗せて筆記をしたり、洗濯用ゴム手袋を頭に乗せ数殊を持ち腹巻に本を差し込んだ格好で居房内を徘回するという行動をとるようになった。被拘束者は、その後も、体にゴム手袋やビニール袋を巻き付ける等の動作を頻繁にし、このような動作は、平成二年一二月初旬ころまで続いた。
昭和六〇年から平成二年にかけての被拘束者の喫食状況は普通であり、睡眠状況は、時に不眠を訴えることもあるが、全体としては特に異常はない。また、平成三年には、喫食状況は普通であるが、睡眠時間が一時間から四時間程度しかない日が二〇程度あった。
被拘束者は、平成三年一二月一九日に、再審弁護人である請求者安倍治夫の面会に対して、「そんな人知らない。断ってください。」と述べて面会を断ったことがあり、その後平成四年にかけても、弁護人からの面会を拒絶したり、弁護人からの通信文を破り捨てるなどしている。また、被拘束者は、請求者甲野花子等の親族の面会についても、平成四年一月四日の面会を最後に、全く応じなくなり、面会を告知した職員に、「おことわり、面会は神の国で」と書いた便せんを見せるなどしている。さらに、同年二月二一日から三月一日にかけて給食をとらず、りんごやカステラを食べるのみの日が続き、また、同月三日からは主食を水で洗って牛乳をかけて食べるようになった。
被拘束者は、同月ころから同年七月にかけて、請求者甲野花子あてに、「神の国に於いてはお芽出度く」、「真理甲野儀式にございまして」、「てんぐと致しての」、「唯一最大の全能の神、日本の世界の刑務官長となって」、「出獄する事に相成る」、「前趣旨を正妻殿から全人類の良心にご報告下さい」といった内容のはがきを頻繁に出すようになった。なお、これらのはがきは、縦書きで、通常とは逆に左方から右方へと行を進める記載方法となっており、差出年月日の記載は、九二年というものが多いが、昭和四七年や昭和五七年という記載が併記ないし単記されているものがある。
被拘束者は、同年四月以降、「電波を弱くするため」と述べて、厚着をするという行動をとっていたが、同年八月末ころからは、他の一般被収容者と同様の肌着姿でいるようになった。また、同年八月中旬ころにおいても、主食を水で洗うことは続けているが、そのころから主食に牛乳をかけることはなくなり、罐詰の総菜を副食にして食べるようになった。
(二) 被拘束者については、現在も電波や「霊の声」についての発言がみられる。表情は豊かではないが、平板ではなく、感情表出はあり、奇異な表情をすることはなく、身のこなしも自然である。発話は明僚で抑揚もあり、途絶はみられない。
被拘束者は、現在のところ、職員に対して攻撃的な言動をすることはなくなっており、規律違反行為、自傷行為はしていない。着衣に乱れはなく、居房を整然と整理し、清潔に保っている。また、洗顔、歯磨きは毎日行い、洗髪、爪きり、理髪も定期的に行っている。睡眠時間は、一日に一、二時間程度のこともあるが、総じて一日七時間程度の睡眠をとっている。
3 東京拘置所における医療体制及び被拘束者に対する医療的措置
本件記録によると、東京拘置所における医療体制及び被拘束者に対する医療的措置について、次の事実が認められる。
(一) 東京拘置所には、現在、医務部長以下一一名の医師が配属されており、そのうち、精神科医が二名、脳外科医が二名いる。なお、必要に応じて外部の医師が所内で診察に当たることもある。拘置所内には診療所及び病棟が設置され、集中治療室(ICU)も置かれている。このように、在監者に対しては、必要に応じ、精神医学、神経学及び脳外科の領域を含め、入院加療、薬物療法その他の検査、診察、治療が施される体制になっている。
(二) 昭和六〇年、被拘束者が食事の中に眠れなくなる薬が入っているなどと訴えたのに対し、職員が服薬を勧めたが、被拘束者はこれを拒絶した。前記2のように被拘束者が電波が来ると述べたり、ゴム手袋を頭に乗せたりすることにつき、昭和六二年七月二四日ころから職員が診察を受けるよう指導したが、被拘束者はこれに応じず、その後も一貫して診察を拒絶し続けた。その後、昭和六三年二月一七日に、被拘束者の右のような言動について、薬物療法を試みたところ、これに被拘束者も同意し、断続的に投薬が行われたが、同年五月中旬からは被拘束者が拒否したため、投薬は打ち切られた。また、平成二年一二月には被拘束者の拘禁性の症状に対して服薬を勧めたが、被拘束者が拒絶し、平成四年二月下旬の不食に対する診察についても、被拘束者が応じたのは一度のみ(その際も精神科的診察は拒否した。)で、その余の診察は拒絶した。被拘束者は、同年四月から七月にかけて、診察を一貫して拒否し、東京拘置所の対応も検尿を施行する程度であった。しかし、同年八月七日には外来受診(居房から出て拘置所内の診療所又は病棟に行って受ける診療)は拒否したものの、居房内での医官による診察(カウンセリング)が施行された。そして、同年八月一三日には、拘束者が職員の説得により外来受診に応じたため、カウンセリングが施行された。その後、被拘束者は、同月二〇日、二七日、同年九月三日、一〇日、一七日と外来受診に応じた。その間から同年一〇月にかけて、医師が被拘束者に対して精神医学的面接、神経学的検査及び頭部CT検査を行い、後記4でみるような検査結果を得た。同年一〇月現在において、被拘束者は依然投薬を拒絶しているが、東京拘置所医務部の医師は、被拘束者と一回につき三〇分ないし四〇分程度の精神医学的面接が可能な状況にあり、また、右神経学的検査及びCT検査の際にも、被拘束者は診察に協力的であった。東京拘置所医務部では、被拘束者の症状(後記4)や対応の状態からみて、現時点では、被拘束者の意に反して投薬治療を行う必要性及び妥当性はなく、東京拘置所内で適切な医療措置は可能であると判断しており、被拘束者との信頼関係の形成を図りつつ、面接等の措置を行っている。
なお、以上のような精神医学的及び神経学的措置のほかに、東京拘置所では、被拘束者に対し、ほぼ三か月に一度の定期健康診断を行っているほか、胃部不快感、腹部膨満感や下痢等の訴えについて投薬をしたり、血圧測定を行うなどの措置を施している。
4 被拘束者の精神医学的及び神経学的疾患の内容
(一) 被拘束者の精神医学的及び神経学的疾患の内容については、本件記録及び準備調査の結果によって、次のとおりであることが認められる。
まず、精神医学的にみて、被拘束者の病名は幻覚妄想状態(心因的色彩を帯びた拘禁反応による幻覚妄想状態)である。被拘束者の奇異な言動は、「霊の世界」を主題とした幻聴、幻覚、妄想に基づくものであるが、被拘束者の主体をその根底から脅かすような幻覚は認められない。面接や日常会話においては現実的認識に基づいたしっかりした対応が可能であり、人格的な水準低下や感情の鈍麻は目立たない。また、その病状は外部的要因と連動する傾向が認められる。現在のところ、「連合弛緩」や「支離滅裂」はみられず、精神分裂病を積極的に示唆する症状はない。
次に、被拘束者の神経学的な状態は、意識清明で、見当識障害はなく(時間、場所、人につき異常はない。)、脳神経・小脳機能に異常がなく、四肢の運動や知覚の障害は認められないなど、神経学的には特段の異常がない。
さらに、被拘束者のCTスキャン撮影の結果、被拘束者の脳に梗塞、出血及び腫瘍はなく、正中偏位及び左右差はなく、脳萎縮や外傷に関連する変化も認められず、年令相応の正常の頭部のCT像を示している。
(二) ところで、請求者らは、拘束者代理人がその主張において東京拘置所医務部長橋本正夫作成の書面を引用することに関し、右橋本が精神科医ではなく被拘束者を直接診察しておらず、直接診察した医師の氏名等が明らかにされていないことから右主張は信用性がない旨主張する。
しかし、本件記録及び準備調査の結果によると、拘束者代理人の右主張は、東京拘置所医務部に所属する精神科医、脳神経外科医等の医師が被拘束者に対して直接、面接、診察及び検査をして得た所見に基づくものであることは明らかであり、その内容は十分信用するに足りるものというべきである。
また、請求者らは、松沢病院院長金子嗣郎作成の書面を引用して、被拘束者がもとプロボクシングの選手であり、脳器質損傷の存在が窺われ、それが拘禁反応の予後を悪化させると予想される旨主張しているが、前記のように被拘束者の平成四年一〇月に実施した頭部CT検査の結果によると、脳器質損傷の存在を認めることはできないので、右主張は理由がない。
5 本件拘束の違法性についての判断
2ないし4の認定事実に基づき、本件拘束の著しく、かつ、顕著な違法性の有無について判断する。
被拘束者は、精神医学的にみて、心因的色彩を帯びた拘禁反応による幻覚妄想状態にあり、電波や霊の世界に関する妄想に基づく前記2のような奇異な言動をとっている。そして、被拘束者の奇異な言動は昭和六〇年ころから始まり、現在まで続いていることから、被拘束者はその間もほぼ同様の幻覚妄想状態にあったものと推認される。しかし、この間に被拘束者が精神分裂症にかかったと認めることはできない。これについての東京拘置所ないし拘束者の医療的対応は、昭和六〇年から平成四年七月ころまでは、診察を試みたもののこれを被拘束者に拒否されるため、一時期を除いて効果的な対応をとることができなかったが、同年八月ころからは、診察が可能となり、各種の検査も被拘束者の協力の下に施行し、東京拘置所医務部の医師は、被拘束者と一回につき三〇分ないし四〇分程度の精神医学的面接も可能であって、被拘束者との間の一定の信頼関係も形成しつつあるということができる。東京拘置所の医療体制は、診療所及び病棟が設置され、精神科医及び脳外科医各二名を含む医師が配属されている。また、精神医学的面接や神経学的検査を施行でき、必要に応じ、これらの医学領域における投薬治療も可能であって、脳器質障害についての頭部CT検査等の脳外科的対応をすることも可能な体制にある。これらの点に前記各認定事実を併せて考えると、東京拘置所医務部において、現時点において、被拘束者に対して、その意に反して投薬治療を行う必要性及び妥当性はなく、東京拘置所における精神医学的面接等の医療措置によって適切な対応が可能であると判断していることが誤りであるということは困難である。
そうすると、本件においては、被拘束者は治療を要する精神疾患を有するものといえるが、被拘束者を東京拘置所にそのまま拘禁しておいては当該疾患に対応した効果的な治療が明らかに期待できず、当該疾患が改善せず又は悪化するおそれが顕著であるということはできない。
したがって、本件拘束について、著しい違法性が顕著であるということはできない。
なお、請求者らは、前記金子嗣郎作成の書面及び精神科医小木貞孝の著書を引用して、拘置所の医療体制の不十分性や松沢病院の人的・物的設備の優秀性について主張する。しかし、東京拘置所の医療体制については、右金子作成の書面は、拘置所の外部からの一般的な推測を述べたものにすぎないといわざるを得ないし、右小木の著書も、昭和三〇年代の東京拘置所の医療体制について言及したものであり、現在における東京拘置所の医療体制を具体的に示すものではないので、いずれも、前記認定及び判断を左右するものとはいえない。また、松沢病院の人的・物的設備が優良であるとしても、前記1で判示したように監獄よりも他の病院の方がより効果的な治療を実施できる可能性があるという事情から、直ちに本件拘束の違法性を基礎付けるものではない。したがって、請求者らの右主張は理由がない。
よって、本件各請求は、理由のないことが明白である。
三結論
以上の次第であるので、請求者らの本件主位的請求及び予備的請求は、いずれも理由のないことが明白であるから、法一一条一項、規則二一条一項六号により、決定でこれを棄却することとし、手続費用について法一七条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官石垣君雄 裁判官金井康雄 裁判官光本正俊)